資格英語を超えて

英語「学習」の終活 – サラリーマンの視点から

こんにちは、なみすけ85です。

私は英語学習の補助ツールとしてTwitterを使っており、その中で、英語予備校講師、英語熟講師、英会話講師、学校の先生、翻訳家、通訳家など、「英語で飯を食う」プロの方たちと交流させてもらっています。

常々私が感じているのは、この様なプロの方たちと、私の様に「英語もたまに使う程度のサラリーマン」との間には、英語愛という点で大きなギャップがあるということ。

もちろん英語は好きですし、自分のアイデンティティを形成している一部とも感じます。

しかし、プロの方たちがtwitterで発信する「死ぬまでストイックに英語学習」的な思想には、ついて行きたくてもついていけない時があります。

熱い有益発信を横目に、ふと冷静になって、「英語だけ向上させるのが、自分にとって正しいのだろうか」となったりします。

今回は、いつもに増して主観的な内容になります。

生活の軸が英語ではないが英語が好きなサラリーマンの視点による、国内での英語との向き合い方の一例です。

資格学習→コミュ英語→米国での研究員生活で実践英語と、英語学習的には1サイクル終わりましたので、自分にとっての英語学習を今一度考えてみました。

米国で感じたこと

直近の出来事から始めます。

「英語は使えてこそ。意図を伝えられるなら、それ以上は望まない。」

「英語はただのツールであり、中身こそが正義。」

これは私がボストンでの日常生活とMITでの研究生活で感じた、現地で求められる英語のイメージです。

スーパーのおばちゃんとの会話は、簡単な単語を使って、料理の話、治安の話、犬の話。

研究室の会議では、話は100%「内容」にフォーカスして聴きます。

その際に、「話者の英語力がどうとか、使用する単語や文法がどうとか、口を挟もうもんなら「くだらない」と白い目で見られるだろうな」とさえ感じました。

(もちろん研究分野が言語でないことが理由というのもありますが、今回は言語を職業としないネイティブとのお話ですので。)

ネイティブとの即興の会話の中で、私が渡米前に血眼になって勉強していたGREにも出てこない様な「難単語」やネイティブが使う「気の利いた表現」が重要になることはほとんどなく。

もちろん論文を読むときには語彙力は重宝しますが、今や翻訳機新時代。Google翻訳やDeepL翻訳に本文コピペし突っ込めば、一瞬で全訳が出てきます。

こうなると、私の単純なロジック思考はこうなります。

なみすけ85
なみすけ85
英語である程度コミュニケーションできる今、これ以上生涯使わないかもしれない表現を得るために、時間とお金を投資する意味とは?

このような実利的な(サラリーマン的?)思考回路になってしまうというのが、私の本音です。

もちろん、人の趣味に首を突っ込む気はさらさらなく、生涯スポーツや音楽などと同様趣味として英語道を極めんとする方を否定するものでは全くありません。

ただ、私はそうはなれなくなった、というだけの話です。

どこまで英語学習をすれば良いか?

ではどこまで英語学習をすれば良いのでしょうか?

単なる私の意見です。

必要な英語力とは人によって様々ですし、資格英語だけで測れないのもわかっています。(資格なんてなくても、ネイティブ並みの人はたくさんいるのも知っています。)

ただ英語好きのサラリーマンや海外で活躍したい研究者のための一つの指標として。

私の様に国内で英語学習をした後、アメリカなど現地でネイティブと仕事や研究をする場合、どの程度の英語力が必要となるかの最低ラインの目安を書いておきます。

  • ネイティブや世界各国から集まったネイティブ並の研究者、教授、大学院生たちを、しっかり自分の議論の土俵に引き込むことができる
  • ネイティブと特定の分野について十分に議論し、お互いの意見を尊重しあえ、相手に対して反論し十分に説得させることができる
  • 逆にこれ以下なら多分言語バリアを感じさせ、言葉が業務の障害になるという線引き

私の感覚として、英語資格の最低ラインとは、やはりTOEIC900後半、英検1級。

そこに発音、多少の会話表現、スラングなどのコミュ英語力が上乗せされた状態が、ネイティブとまあまあやりあえる英語力と思います。

ネイティブと議論をまあまあやりあえる英語力=TOEIC900後半+英検1級+コミュ英語力

英検1級?と思う方がいらっしゃると思います。

が、想像異常にネイティブとの「議論」においては英検1級単語のオンパレードです。工学や数理的な話が中心であるにも関わらず、です。

もちろん「相手を理解させること」が議論の第一の目標のなので、多くの部分では、フランクでかつスラングのような柔らかい表現を主として使います。

しかし、英検1級の単語の強みは、その一単語がかなり専門的(特化しているの)で、無駄な説明文なしで、表現できる点。

日常会話では使わない特化した単語であっても、ネイティブはここぞ!という時には普通に使ってきます。

たとえばものすごく簡単な例ですと、”Make it clear“は”Clarify“の一語でわかりやすく、表現することができる。

ノンネイティブがだらだら話してもなかなか聞いてもらえないので、ポイントで英検1級レベルの単語を使うことは非常に効果的です。

ちなみに私は、会議が始まる前に、英検1級のときにつかいこんだ単語帳をさっと眺め、そこの単語や熟語を自分のキーポイントで挿入していました。

キクタン英検1級(黄色印は、ネイティブ研究者や教授から毎度連発される熟語達)

上手に自然にはさみこまなければいけないので難易度高めですが、綺麗にきまれば、そこで得られるオーディエンスはよく耳を傾けてくれます。

また、試験の分野が特化しているように見えますが、国連英検特A級の面接を突破できるスピーキング力をお持ちの方は、コミュ英語力があれば、すでに十分にやりあえるはずです。

※余談ですが、国際情勢や業界を統括する国連の専門機関について英語で発信できる様になった国連英検特A級の学習は、世界の知識人と勝負する際に最も役立った英語力でした。

会話の中で、自分のセンテンスを英検1級レベルの意味が特化した単語で締めにいくことができる。

これこそが、日本人が海外で活躍しグローバル人材として最終的に目指す英語力だろう、というのが私の結論です。

逆にこれ以下だと少しきついかなと感じました。

なみすけ85
なみすけ85
もちろん過去の自分と比較しての話です。

アメリカでの会議はシビアで、会話について来れなければ即置いてけぼりです。

また、ノーベル賞でもとるような提案をすれば話は別ですが、並の提案を英語でしっかり伝えなければ、「なんかおもしろうそうだね」の社交辞令で真剣に受け取ってくれない場合も多いです。

今回私がネイティブに遅れをとることなく、対等にやりあえたのは、日本での6年間、TOEIC、英検、国連英検、コミュ英語等の英語学習のおかげだと思っています。



ここ6年間で初めて英語学習をやめた

TOEIC800点から英語学習を再開して早6年半くらい経ちますが、英語学習の心が折れたことはありませんでした。

英語学習は投資時間に対して非線形的に効果が見えてくるので、伸びが横這いの時は嫌になることもありましたが、長期的なモチベーションを失うことはありませんでした。

しかし渡米後。

一旦この思考になってしまうと、私の場合、行動が伴ってきます。

帰国後のツイートがこれです。

反感を買いそうですが、正直なところ、自分が得た英語力に満足してしまいました。

「米国で公私共に英語で困らなかったからもういい。」

国内で難しい単語帳を開き、英語の表現を延々と学習するというモチベーションが全く保てず、英語学習をやめてしまいました。

「死ぬまでに使わないかもしれな英語表現の習得に、人生の時間とお金を投資したくない」という気持ちが支配的になってきます。

空虚な生活の始まり

帰国後、平和な日本の生活を堪能します。

日々の生活は、仕事、家族とのだんらん、寝る前のYoutube。

一切英語なしの生活。新鮮でした。

しかし一週間、二週間が経った頃から、生活への満足度が異様に低いことに気づきました。

サラリーマンなのだがら、仕事面ではお金を稼いで家族を養い、プライベート面では家族と生活しながら自分の楽しいことをする。

なんか良さそうじゃないですか。

しかし、何か足りない感覚に襲われます。

やはり英語なのかなーと思い、試しに英語のドラマを見たりしてみますが、英語脳が劣化しているので、よくわかりません。

そう、見て見ぬ振りをしていたのですが、内心自分の英語力の「劣化」に気づいていました。

これは英語以外のことにも共通すると思いますが、自分の能力や技術が「向上」する時は充実感を感じ、「劣化」する時はネガティブな感情に襲われます。

英語でも、スポーツでも、音楽でも、伸びている時は楽しいし、下手になっている時は苦しい。

これに気づいてから、私は自分自身の日々の生活を楽しむためにも、英語に限らず、能力・技術・知識の「維持向上」を心がけることにしました。

違う分野への投資

これまでは、英語1本でした。

英語4技能全てにおいて向上を目指し、休日の多くの時間を投資してきました。

しかし、上記の様に米国で感じた違和感、「うわべじゃなくて中身」のマインドに気づいた今、同じ様に残りの人生を、中身を伝えるツールである英語だけに捧げることはできなくなりました。

数学、プログラミング、子供の教育、そしてアウトドアなどの趣味。

持っている時間とエネルギーは一定ですので、それをどう割り振るか、という問題です。

私の場合は、私と家族の生活の満足度を高めるために、これらにバランスよく時間を割り当てていかなければいけません。

これを国内で達成するには、「英語力は維持。あわよくば少しの向上。」と設定し、英語「学習」を脱却しなくては時間が足りません。

英語力を維持するためには、「〜ながら英語」でも良いので、英語が自然に日常生活に溶け込んだ状態が必要です。

朝起きて、

PodcastでBBCを聴きながら通勤して、

仕事ではできるだけ海外案件に参加できる様に努力して、

たまには英語で独り言を言いながら帰宅して、

スカパーでCNNやAnimal Planetを見て、

Netflixで海外ドラマを見ながら就寝。

休日は余力があれば、子供と英語を話したり、カフェで英語のプロが書いた本やTIMEを読んだり。

英語力の向上を急がず、当たり前の生活の中で英語と触れ続けることで、英語と上手に付き合っていく。日本で英語力を維持する。

これらを気づかせてくれたのは、Twitterにいる長年英語と付き合っている人生の先輩たちです。

まとめ

結論として、私はここで英語「学習」を卒業します。

これ以上の英語力の向上は望まず、ただただ日本語と平等に英語にも触れる生活を送り、他の分野にも移行することで「中身」に磨きをかけます。

現時点での自分の英語力を認めることができる今、「英語学習からの解放」という言葉が強く自分の中にあります。

私より英語ができる人から見れば「その程度か」ということになるかもしれません。

ただ私にとっての英語のゴールはここでした。境遇は人によって全く異なります。皆さんにとっての英語学習のゴールはどこでしょうか?

英語学習をやめる代わりにトレードオフで得た時間を、自分が大事だと判断する他の分野へ投資していきます。

6年間自分が大切にし続けたマインド(=英語が1番)を捨て去るのは、なかなか大変でしたが、なんとか英語偏愛の脱却、そして英語「も」ある自分が幸せと思える生活へ帰着しました。

あくまで自然に、日本語と英語の環境の中で生き平等に接していく。

それを英語学習だと言えばそれまでですが、自分の中で何か別の次元に来た感覚でいます。

とりあえず「死ぬまで英語がんばる」というのはやめにしました。

ABOUT ME
なみすけ85
会社員(38)。2児の父。趣味でブログ運営。英検1級、TOEIC満点、国連英検特A級(外務大臣賞)。できるだけ金のかからない自宅学習法を目指して発信。